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伊能ウォークの思い出
(1999.1.25〜2001.1.1)

伊能ウォーク足跡マップ



1 ■伊能本隊を車中泊で追っかける
 会社勤めを辞めて10年、この道にハマリ込んで8年。伊能隊がスタートして来年1月で6年になる。伊能Wの企画を朝日新聞で知った時、本隊応募を真剣に考えた。
後援も勤めていた時計会社だった。2年間家を空ける・・「亭主元気で留守がいい、私は私で好きな事をやりますから」を絶えず口にしていた女房だ、なんとかなるだろう。
だが参加費400万円にはやはり・・結局断念した。
しかし諦めきれず、本隊が2年間で全国を11,000km歩いたが、私は結局日本各地を北海道を除きGH(車中泊・・沖縄はエリア隊)で追っかけ回し、220日 4,500km を歩いた。
以下、前後するが思い出すまま綴っていきたいと思う。当時ケイタイでレポート出来ていたらな〜。

2 ■伊能ウォークの前から・・
 伊能Wは、2001年の元旦 東京にゴールを目指し、1999年1月29日江戸東京博物館をスタートした。会場は2,000人ものウォーカーが参集。
憧れた本隊員15名の紹介があったが知っていたのは大内隊長だけだった。凄い混雑の中 誰がいたのか、スポンサーだった勤めていた会社の重役と話した以外あまり記憶にない。
この日から私の伊能Wの「追っかけ」が始まったのだが、4日前の25日からプレWとして富岡八幡宮を中心とした「首都圏五街道大会」 東海道 中山道 奥州&日光街道 甲州街道
各20数KmのWがあり、更に22〜24日は「いぶすき菜の花M&せっかくW」に参加し、連続Wは既に22日から始まっていた。

3 ■先ず房総半島を・・
 第一ステージのスタートは房総半島一周。三日目の市原市までは日帰り、四日目からGH(車中泊)で追っかけた。何日目だったからか千葉の伊藤氏と一緒に歩き、
それ以来の親交となった。未だその時は何処まで歩くか?は決めていなかったが、ゼッケンには「調子良ければ銚子まで」と書いて歩いた。【巻末の画像参照】
「お家が段々遠くなる・・」 スタート地の市役所 町役場 の駐車場に車を置き、ゴール後は内房線 外房線で車に戻り、次のスタート地に車を走らせそこでGHの尺取虫移動の連続。
千倉では丁度「南房総フラワーマーチ」の開催日程に合わせてあり、その時だけは戦列を離れ「フラワーマーチ 40km」に2日参加した。追っかけ隊ならではの自由選択である。

4 ■雪の小学校庭で・・
 日本各地を歩き、忘れられないエピソードはいろいろあるが、記録していなかった為、残念ながら何処だったのか?思い出せない処が多い。
房総半島一周で思い出すのは、千倉の前日の朝だった。千倉へのスタート地は館山市布良小学校。前日ゴール後 校長に了解を取り、校庭の片隅で一夜を明かした。
朝 目を覚ますと車中から外が見えない。雪である!車中でコンロで暖をとりながら朝食、表へ出た。三々五々登校する生徒。校庭で雪合戦が始まる。
私も加わった雪合戦は忘れる事が出来ない。雪の校庭で始まった出発式。生徒達に見送られスタート。雪合戦をした生徒達と握手で別れた。
千倉へゴールし、車へ戻る手段は鉄道は無く本数の少ない路線バス。暗くなって布良小へ戻った。明かりが灯いており未だ教頭先生が・・、校門を開けて貰った。

5 ■千葉の歩友と千葉を・・
 内房総に戻るが、ディズニーランドの尖塔を右に、木更津の工業コンビナートを横目に歩いた時は新日本製鉄の広大な敷地に驚いたのを覚えている。
房総先端の館山から相模灘を通した雪を頂いた富士山も忘れなれない。また「皇太子ご夫妻がお忍びで来られている、今ここを車で通られる」との情報が入り、
急遽フラワーラインでの見送り休憩となった。アットいう間のハプニングだった。九十九里では前年「忠敬生誕青春W」で歩いた処であり、忠敬の偉業を思い砂浜を歩いた。
結局 伊能W出だしの房総半島一周のステージは、銚子の先の神栖町(2/15)まで歩き、スタート前の「いぶすき・・」から茨城入口の神栖町まで25日間 668kmの連日Wとなった。
その後、安い宿を探しながらズット一緒に歩いた千葉の伊藤氏は「東京人に千葉を総ナメにされるとは千葉人の立場がない!」と 茨城をもズット歩いたらしい。

Re■[トボトボ]伊能ウォークの思い出(4)]
 「車中でコンロで暖をとりながら・・・」コレ、一酸化炭素中毒による車中自殺の方法です。寒くても窓は開けましょう。

6 ■自由な身で不自由を楽しむ
 トボトボ殿が心配する 車中でのコンロ使用は確かに危険・・と当初は思っていた。しかし、意外と大丈夫である。勿論窓は少し開けているが、今話題の練炭ではない。
ガスボンベによる危険はむしろ火災や、鍋をひっくり返す火傷だと思うが十分注意している。当初 山用のコンロを使用していたが、ボンベも高価く、座りも悪い為家庭用に切り替えた。
GH生活も2DM参加の様な短期滞在の場合は、コンロ使用は朝のみで、カッブ麺を鍋に明け 切り餅2ヶを入れ沸騰させる。そして朝のコーヒー。
しかし、伊能Wの様な長期生活では、夜もコンロを使用した。だし汁は用意したし、スーパーで鍋物の具を仕入れて車中でやった。畳んだ布団を背に コンロを前にアグラをかき、
缶ビール片手に熱い鍋をつつく・・自由な身で不自由な生活を楽しんだ。

7 ■指圧療法師
 また、房総半島その後に戻るが、茨城県では 水戸〜日立41km という伊能W最長の区間があり、その日(2/22)だけは前夜のGHで参加した。
伊藤氏は勿論 熱海の志方氏もこの日参加していたのを覚えている。長距離ではその前に勝浦〜一宮38kmがあり、伊能隊員はその時の方が皆マメに悩んだらしい。
伊能本隊員は、前年東松山の日本スリーデーマーチでの最終審査をパスした人達だが、普段から長距離を歩いていた人は数少ない、と後で知った。
しかし、毎日 20km以上歩いていると1ヶ月も経たないうちに皆慣れて来るものである。
休憩時、追っかけ隊に「指圧療法」で隊員の足や肩を奉仕治療をしていた人気者が居た。希望者は歩きながら次の休憩地での予約をしていた。
その人はかめさんより年上で、飛ばす事で有名な埼玉の金井仁司さんである。

8 ■本隊員より歩いた二年
 第一ステージは札幌(5/2)迄だったが、私がその後参加したのは第二ステージに入ってからで、青森(5/14)から日本海側を南下していた酒田(6/7)からだった。
その間3ヶ月半のブランクがあったが、オランダのナイメヘンに参加した翌年2000年7月以外は2年間毎月伊能隊を追っかけた。
酒田からの参加は、「猪苗代湖一周60Km」(6/6)と「津軽路ロマン2DM」(6/12・13)に合せての参加だったが、その後も伊能Wの参加は殆ど他の大会に併せての参加だった。
伊能がらみのGHでの長期滞在は全て2週間を超えるホームレス生活(最長3週間)であり、女房から携帯電話を持たされたのはそんな時だった。
伊能隊を追っかけた2年間、GHで毎月1〜3週間の放浪生活・・殆ど家に居なかった。この2年間 歩いた距離はIVVベースで11,655km 伊能本隊の11,030km を上回った。
伊能本隊員になれなかった対抗意識だったかも知れない。正にクレイジーの2年間だった。

9 ■クレイジーウォーク
 クレイジーと言えば、今ではとても考えられない事をやった。「日本スリーデーマーチ」は勿論 50kmを3日間歩いた。
3日目ゴール後休む間もなく東松山から高速で車を走らせ翌日は伊勢志摩を歩いている伊能隊に合流した。そして「加古川・・」に参加後また伊能隊に戻り、
「小田原ツーデー」「伊能」「平成の東海道」「伊能」と続けた。翌年も同じ、東松山から高崎 諏訪経由で高速に乗り、翌日鳥取を歩いていた伊能隊に合流した。
大内隊長も前日東松山を50km歩いたとは信用してくれなかった。翌週の「加古川・・」初日は伊能Wは休養日だったが私は勿論加古川へ。その年 加古川初日は50kmだった。
今はそんな馬鹿げた無謀な事をする気力もないし、するつもりもない。インターネットの世界を知り、Club Walking の仲間を知り、まともな人間に立ち戻った。??
・・また歩きながらの危険?なレポート。やはりクレイジー後遺症?

10 ■“つまみ食い”での思い出
 伊能ウォーク・・伊能忠敬が200年前 日本列島を測量しながら歩いた道をたどる二年間の旅。
基本的には海岸線だが、全国47都道府県を一筆書きで歩く事を主眼にしており、必ずしも海岸沿いを歩いた訳ではない。特に第二ステージは殆どが内陸であった。
二年間歩いた伊能Wの思い出・・日本各地の一筆書きのコースをつまみ食い状態で歩いた訳だが、その地の風景や風物といったものは記録していなかった為か あまり記憶に残っていない。
どうしても各地で出くわしたエピソードや、その地の人との出会い 一緒に歩いた人との触れ合いが心に残る。時系列的には前後するが断片的な思い出を・・

11 ■市町村役場の駐車場で車中泊
 伊能Wの車での「追っかけ」は移動の為、歩いた後は必ず交通手段で車へ戻らなければならない。毎日違う地でのGHで転々と。
基本的にはスタート地に車を置くが、時には先にゴール地に車を置きスタート地に戻る場合もあり、連泊する時もあった。
伊能Wのスタート&ゴール会場は殆どが通過地の市町村役場である。その為GHの宿営地はその駐車場が多かった。勿論事情により公園や駅前の駐車場や道の駅もあったが・・。
とにかく初めての地であり、その日の宿営地は行き当りばったり。私はゴールすると先ず今夜寝泊りするGHの地を物色する・・
(余談だが・・今はゴール後の宿では先ずケイタイ充電用のコンセントを探す)。歓迎の横断幕の下で始まる市役所等の職員総出の歓迎式。
市(町・村)長の歓迎挨拶中 庶務課長らしい人を探す。そして、東京から車で寝泊りしながら全国を歩いている事情を話す。
すると「それは大変ですネ」と便宜を払ってくれる。「伊能の印籠」ならではの効力である。

12 ■“印籠の”の功
 地方の市役所の駐車場でも、時にはゲートがあったり 地下だったり 駐車ビルだったり。何処の市役所(新潟市?)だったか忘れたが、駐車ビルだった。
例の如く「伊能の印籠」をチラツかせると「駐車ビルで寝る訳にはいかないでしょう、今夜は玄関脇の空き地に停めて下さい。明日朝駐車場へ案内します」と。
そしてゴール後市役所へ戻ると、無料駐車券を発行してくれた。近くの競技場や公民館へ連絡し、駐車場を紹介してくれた市役所もあった。
四国での村役場での話である。駐車場の許可を貰ったが、車で戻り駐車しようとすると管理人がやって来て「何も車で寝る事はない、管理人室が空いているのでどうぞ」と。
洗濯機まで借りた。夕食をご馳走になりながら管理人夫婦に伊能Wの話を。

13 ■真夜中での出来事
 広い駐車場、夕方から1台去り2台去り・・、夜には広い駐車場のど真ん中に1台ポツリ。真夜中、窓を叩く音・・。眠い目をこすり見上げると・・赤色灯がパカパカ。
パトカーである。他県cvレートの車が市役所の駐車場に1台。懐中電灯で照らして車中を覗くと浮浪者風の男が・・。早速職務尋問である。
実は・・東京から・・車で・・伊能Wを・・ 「??何だ?イノウ?」 伊能Wを理解させるのに苦労する。やっと理解したのか「そうかネ、ワシも腹が出とるで歩かんといかんナ」
土日には市民に駐車場を開放している市役所が多い。夕方から夜にかけ若いカップルがよく利用する。私の車のガラスはスモークで外からは中に居るのは分らない。
カップルが私の車に横付け・・暫くして・・!!。 そんな場面を二度経験した。その翌日は当然寝不足ウォークである。

14 ■いろいろあった宿営地
 「伊能の印籠」が功を奏しない事もあった。熊本市役所だった。本隊の荷物を運ぶ新ちゃん(新沢)のトラックに対しても冷たく駐車禁止。私はこれを知り当然諦めた。
ところが熊本の当日参加のウォーカーが、熊本城近くの24時間営業の温泉センター「城の湯」を紹介してくれた。安い温泉でそこの駐車場には連泊した。
GHの最適地はやはり道の駅である。トイレもあれば洗濯も気兼ねなく出来る。しかし道の駅は鉄道の駅からは遠い場合が多く、宿泊には適しているが車を置き歩くには不便である。
その為夜は道の駅、朝からは他の駐車場を使う場合もあった。公園の駐車場を利用した事もある。トイレ 水場があるからである。
しかし、夜になると暴走族の溜まり場になり息を潜めていた事もあり、スケボーの練習場になりうるさく寝れない事もあった。私の車に寄りかかり携帯電話で長話しする若者もいた。

15 ■牛乳パックとインスタント麺のどんぶり
 伊能Wの追っかけの車中生活・・2デーマーチ等のGHと違い、毎日移動の未知の地でのGHの生活である。二年間続けると いろいろ生活の知恵が出て来る。
またノウハウを伝授して貰う事もあった。夜のGHで先ず必要なのはトイレである。トイレのある駐車場や裏口を開けてくれた市役所もあったが、トイレがないのが普通。
「大」は別として「小」は必ず夜必要だ。そこは男性、牛乳パックを利用した。私の車はホンダ・オデッセイ。後部座席の肘掛部にカップ用の四角い穴があり、これが牛乳パックにピッタリ。
倒す心配もない。1Lの容量であり、洗濯バサミでつまんで置けば匂いも出ずOK。特に冬の夜や雨の日には外に出る必要がなく便利である。
「大」用も非常用に用意していた。インスタント麺のどんぶり2個 新聞紙 ビニール袋である。1度だけ使用した事がある。その処置は? 河川敷の草むらへ・・ m(_ _)m

16 ■ホームレスの自動洗濯機
 車での長期滞在では洗濯は欠かせない。下着類(シャツ パンツ 靴下)は5組用意したが、基本的には3組を回転させる。歩き終わって車へ戻ると、先ず洗濯。
公園 道の駅が多かったが 時には駅のトイレでも。洗剤は当初固形や粉末を利用していたがヤハリ液体洗剤が便利である。蛇口の下でポリバケツで・・。
雨の日や場所がない場合は、洗剤溶液を入れたビニール袋に下着類を入れ、そのビニール袋をポリバケツに入れ袋を結ぶ。それを後部座席に置き、あとは車を走らせるだけ。
車の振動による自動洗濯機である。適当な場所を見つけ、溶液を捨て、少し外からもみ洗いし水洗いする。汗だけの汚れならこれで十分である。
これは、和歌山のGHの歩友 出羽氏からの伝授である。男が屋外で洗濯をする。やはり目立つ。ホームレスを気にしていたら長期のGH生活は出来ない。
時々話しかけて来る人がいる。「どちらから?」 東京から日本各地を・・と言うと 「キャンピングカーですかワンボックスですか?」 オデッセイです。
ココまでは車で日本各地を回っていると誰もが思う。 伊能Wは勿論知らないし、全国を歩いていると知ると、中々洗濯がはかどらなくなる。

17 ■自動乾燥機
 洗濯物の乾燥は、車中にロープを張る。脱水は手絞りだけなので完全ではなく、やがて滴り落ちる。その為洗濯物に洗濯バサミでスーパーのビニール袋のスカートをはかせる。
1時間もすれば水滴の溜まったスカートは外すことが出来る。夜は洗濯物の下で寝る事になる。
オデッセイでの寝床はシートをフラットに寝せるのではなく、3列目を床下に収納2列目は前へ跳ね上げる。その為床に直接マットを敷き布団を敷く。
頭上のスペースは洗濯物があっても十分寝れる。勿論、コンロを使用する真上には洗濯物はぶら下げない。翌朝車を離れる際は窓を少し開けておく。歩いて車に戻る頃には乾いている。
雨の日は1日では乾かない。洗濯物を下げた状態で窓を少し開けたまま車を走らせる。乾きが悪い時は2日分を乾かす事にもなる。
同じオデッセイで一緒に伊能隊を追っかけた宮崎の池尻氏は ガラスの吸盤とロープを使い車の外に干していた。このガラスの吸盤、レパーで真空にするもで薄いガラスは割れるかも
という凄い威力の優れもの。今、彼のプレゼントとして私の手元にあり、「空海の道」でも先日の「富士山一周・・」でも宿で重宝した。

18 ■車中泊での入浴
 GHの生活では入浴が問題となる。汗をを余りかかない季節は濡れタオルで身体を拭き、そのタオルを洗濯したが、それでも3・4日に一度は風呂へ入りたくなる。
夏は毎日入りたい。当初はゴール後、近くの銭湯や安い温泉を聞き利用したが、本隊員やスタッフと顔馴染みになると時々本隊の宿の風呂を使わせて貰う様になった。
そういう意味でスタッフの方には随分お世話になった。隊員の洗濯は宿の洗濯機(女性隊員優先とか)を使うか風呂の洗い場で洗濯していた。私も隊員の隣で裸の付き合いをさせてもらった。
そして湯上りのロビーでの談笑も忘れられない。日本語のうまい韓国の金隊員とも話をいろいろ伺った。隣では女性隊員の松本嬢が契約している朝日新聞にノートパソコンでレポート。
畑中隊員も同じく(あとで知ったが契約の雑誌社に)PCでレポートしていた。その頃は、ケイタイで歩きながらレポート出来るとは夢にも思わなかった。
本隊員のレポートも ゆきさん の様なレポートが出来ていたら伊能Wの反響も随分違っていたと思う。時代の流れを感じる。

19 ■伊能忠敬の後輩のサポート
 全国を二年間 車で伊能隊を追っかけられたのは、その地その地で出会った人々との出会いと善意のお陰であった。その一つが「土地家屋調査士会」のサポート隊の人達である。
確か第一ステージのスタート時点では居なかったと思う。私が房総半島を歩き終わった後の時点からのサポートの様で、追っかけ再開の第二ステージ中盤以降からの付き合いとなり、
第三ステージからは随分世話になった。
「土地家屋調査士会」・・土地建物の調査 測量 登記 を業務とする全国的な連合会で、基本は地図という事で 日本地図の父伊能忠敬の測量行の足跡をたどる伊能Wを、
全国規模でリレー式にサポートしよう、との事である。通過地の主要市での伊能図展の運営を 当初伊能隊の事務局スタッフが行っていたが、
途中から調査士制度制定50周年記念事業の一環として「土地家屋調査士会」が肩代わりする事に。そして、連日には隊員や当日参加者への湯茶接待をも受け持った。

20 ■サポート隊にも世話になる
 各地での「土地家屋調査士会」の人達は、連合会の車とマイカー等で毎日10名程度のサポート隊。市や県単位でリレーでのサポートである。
私が車で東京から参加しているという事でスグ懇意になり、ゴール後は車で帰途の途中だから・・とスタート地のGHへ送って貰う事もしばしばあった。
特にお世話になったのは「しまなみ海道」だった。伊能WとスリーデーWの合同大会で、今治〜伯方〜瀬戸田〜尾道を 来島海峡大橋等幾つもの橋を3日かけて四国から広島へ渡る。
この大会延べ3000人を超す参加者。橋を歩いて渡ったはいいが戻りの手段が大変。しかし、「土地家屋調査士会」の人が私の車を搬送してくれた。
7つの橋は全て有料橋であり、ハイウェイカードを預けてのお願いを快く引き受けてくれた。私は車と一緒に瀬戸内海を渡ったのである。ゴールすると既に私の「宿」がそこにあった。
「しまなみ海道」は前年 伊能Wがスタートした年の4月に開通、私は開通した時の記念Wの第1回スリーデーWに参加していたが(開通前の車道を歩けた)、その時は民宿泊での参加だった。

Re■[トボトボ][理想的な死に方]
 現在発売中の月刊「文芸春秋」に、各界著名人数十人が
「理想的な死に方」とはどういうものか、を書いています。
未だ全てを読んではいませんが、いろいろ考えさせられます。
癌専門医の近藤誠によれば「癌で死ぬのが理想」だそうです。
癌で苦しむ人が多いのは無用な抗癌剤を投与するからで
そんなことしなければ殆どの人は安らかに亡くなるんだとか。
Walkerの理想的な死に方は、完歩後に仲間とイッパイやって、そのままポックリでしょうか。

21 ■共に歩いた友の死
 理想的な生き方(死に方)・・GNP、元気 長生き ポックリ。伊能Wでめぐり会い、その後も先輩 歩友として一緒に歩いた人が突然・・。未だ記憶に新しい人。
伊能Wの副隊長だった鈴木勲氏(空海の道全Wの隊長)、そしてステージ隊員として一緒に歩いた神奈川の中村隆ちゃん(隆一氏)である。共に癌だった。
鈴木氏には「空海の道」の隊長としてもお世話になった。長年の功績で環境庁自然環境局長賞の受賞が決まった矢先の訃報だった。
隆ちゃんとは伊能Wで埼玉の鶴巻氏と良く話し乍ら歩いた。3人は同年同月数日違いの同い年であり、今でも鶴巻氏に会う度びに隆ちゃんの話になる。
一昨年 賀状を貰った直後の訃報だった。鈴木氏 隆ちゃん共に年齢的に未だ・・という感は否めないが、
長い闘病ではなかっただけに家族にとっては悔やまれるだろうが理想的な往き方だったかも知れない。
もう一人、伊能Wで知り会った清水実氏を忘れる事は出来ない。昨年の「山手線一周」で上野公園にオッパーさんとゴールしようとした時、夢男さんからの電話で突然の訃報を知らされた。
その日未明のウォーキング中に信号無視のトラックに貞子夫人の目前で・・。正に青天の霹靂だった。

22 ■夫婦で追っかけていたが・・
 GHの会長だった清水実氏が亡くなられてもうじき一年になる。清水夫妻を知ったのも伊能Wだった。私は歩き終わると車に戻る一日単位の尺取虫Wだったが、
清水氏は一日の中で小刻みに尺取虫をやった。朝の出発式には夫妻揃っての参加だったが、スタート時には貞子夫人のみ。やがて・・実氏が向こうから笑顔で手を振りながらやって来る。
適当な処で車を停め、隊列に出会うまで逆コースを・・。そして車の停めてある処まで夫人や皆と歩く。これを小刻みに繰り返す。貞子夫人は通しで歩くが、
実氏はコースの1/2弱を往復歩いた事になる。伊能Wの頃はGH会長とは勿論知らず、JMLでは知る人ぞ知る存在とは知る由もなかった。
仲の良い変わった夫婦だな 位にしか思っていなかった。 後日談だが、朝日新聞の金井カメラマンの「伊能W写真展」に東海道の石畳の坂を登るご夫婦の写真。
タイトルに「仲良く手を取り登る老夫婦」 後日実氏「写真はいいが・・老夫婦は気にいらん!」
今年の1月「秀吉・名古屋ツーデー」 と 「いぶすき・・」 にGHで参加の際、途中で徳島の清水さん宅に弔問に立ち寄ったが、霊前にこの写真の額が掛かっていた。
【後記:何年後だったか、ご長男から連絡があり、貞子夫人もウォーキング中に交通事故に遭われ無くなったと!】

23 ■追っかけ隊の称号
 伊能W・・その実現に至る過程は知る由も無いが、この世界にとっては初めての一大プロジェクトだった事には違い無い。
なにしろ日本列島を一筆書きで2年かけて一周しようというものである。私が本隊の応募を諦め切れず2年間車で追っかけた伊能W。
2年通しで歩く15名の本隊員、5ッのステージを分けて歩くステージ隊、一定の期間歩くエリア隊、そして現地の当日参加のディリー隊。
ところが途中から"追っかけ隊"というのが出現した。伊能Wに魅せられ泊まり込みで遠くから連日参加するリピーターである。
主催者は途中から この追っかけ隊を"スーパーウォーカー"として表彰する様になった。25 50 75 100 150 200回の参加者は回数入りバッヂで表彰しようというのである。
このバッヂ 裏には通しbェ刻ってあり、2ッとないバッヂである。これで追っかけ隊は益々ハマる結果となった。
私は勿論200回(220回参加)のバッヂをゲットした(対象者5名)。しかし上には上が、千葉の藤森實氏は何と365回(本隊574日)の参加だった。
25回に としおじちゃん ユキちゃん の名を最近資料で知った。【巻末の画像参照】

24 ■サポートの面々
 伊能ウォークは、ウォーカーが主役であるが、これを支えたスタッフ 団体を忘れる事は出来ない。大内隊長を支えた 小林昌仁 故鈴木勲(前述) 柳生昌良 川嶋富門 の
4副隊長 と近ツリの荻野邦彦随行隊員。そして隊員を支えた 大庭功 新沢義博(新ちゃん)両運搬担当隊員。
団体として、JWA 朝日新聞の遠藤靖夫氏(最近オッパーさんと飲んでます) 金井三喜雄カメラマン(前述) 岩城元 若林幹生 安楽四郎 番場清 の諸氏 他。
伊能忠敬研究会 土地家屋調査士会(前述) 全国測量設計協会 シチズン時計(大庭隊員運転の車の屋根に取り付けたソーラー式のタイマー GPS装置等担当・・
かめさん SHさんが勤めていた会社です)。 そして、各地でのコース案内を担当した 各県のW協会のスタッフの人々・・。
以上の他にもサポートされた人々 団体もあろうが、思い出される人達 団体である。

25 ■伊能Wの同窓生
 伊能Wのリピーター(追っかけ隊)はその地を歩きたい、というより また皆に会い共に歩きたい・・と参加した人達である。
実際 伊能Wの追っかけ隊の"同窓生"もその後の伊豆半島 大隈半島 下北半島の伊能番外Wでも顔を会わせている。
ところが、伊能Wにハマり、全国を2年間追っかけていたにも拘らず、その後バッタリ姿を見せない"同窓生"もいる。
伊能Wのスーパーウォーカー200 をゲットした5名の最高参加者(365回)の千葉の藤森實氏はその後 時々噂は耳にするが、伊能番外編や他の大会でも顔を会わせた事はない。
そしてもう一人、同じく千葉の大島計介氏。彼は私と同じGHで追っかけた。彼の車は普通のセダンであり、リクライニングシートで200日以上寝泊りしたのである。
彼は伊能Wにハマる前は車にゴルフバックを積んでゴルフ場に通っていた。その彼にもその後会わない。伊能Wとは・・そういう人達にも魅せられる何かがあった。
出会い、別れ、そして再会・・の伊能Wだった。その同窓会が「中山道W」であり「新ちゃんW」であり、オッパーさん紹介の「韓半島一周W」である。

26 ■女性のスーパーウォーカー
 スーパーウォーカー200の他の2名は女性である。確か紀伊半島を歩いていた時だったと思う。GHにいた私に一人の女性が話しかけてきた「伊能Wを歩いている方ですか?」
頷くと 「伊能隊員の西川の家のものですが・・」 と託け物を渡してくれる様預かった。後で知ったが西川阿羅漢(アラオ)本隊員の奥様だった。
その後 時々ディリー隊としての夫人にお会いする様になり、やがて準隊員並として以降ズットおしどり夫婦で歩かれた。それ以来の親交となり、確か忠臣蔵Wだったと思うが
愛知の定宿としていた新安城の駅前駐車場で台風並みの風雨の中ズブ濡れでGHへ戻った際には、近くにお住まいのマンションに招かれ、お風呂と夕食のお世話になった。
中山道Wでもご夫妻と一緒に歩いた。
もう一人の女性・・。群馬のピンクレディー(ピンク尽くめの服装)で有名なSさんである。一家の主婦が200日以上家を空ける・・。ご主人の理解がなければ絶対に出来ない事だと思うが、
正に"かかあ天下"を絵に描いた様な女性である。時々二人で歩く姿を大会で見るが、何時も彼女は40km 彼は20kmを・・。

27 ■GHの仲間
 伊能Wで出会い GHで一緒に追っかけた人・・前述の故清水実氏 千葉の大島計介氏と共に宮崎の池尻典三氏を忘れる事は出来ない。
池尻氏との最初の出会いは九州を追っかけていた時だった。ステージ隊員だった今は亡き神奈川の中村隆ちゃんからの紹介だった。
池尻氏は車での当日参加で、私が車で東京から車中泊で追っかけ しかも同じオデッセイだと知り、池尻氏はそれ以降私と一緒にGHで行動を共にする様になった。
地元の日南海岸を歩いている時には奥様からの昼食の差し入れもあり、中村隆ちゃん 多賀城の和田晃氏とご馳走になったのを覚えている。
後日談だが、昨年 下北半島〜でっかいどう迄 1ヶ月家を空けた出だしのW「松島ツーデー」では、下北半島を一緒に歩く池尻氏 和田氏と松島での船上レストランの夕食も思い出されるが、
駐車場で 池尻氏とオレンジ隊とのGHの宴・・、夢男さん持参の七輪での炭火焼で焼肉と生牡蠣・・、そしてマンゴー。美味かった事は忘れられない。
九州一周浪漫Wでは宮崎の同士として amakaraさんに池尻氏を紹介した事もある。

28 ■素泊まり無料の宿
 池尻氏とはGHでかなり共同生活をした。宿は役場の駐車場が多かったが、夜の宴はそうはいかない。公園や時には路上の外灯の下で、ホームレスと全く変わりない。
飲みながらの話題に・・2台のGHなら 一人がスタート地に宿泊し もう一人がゴール地に泊れば、例え平行した路線が無くともゴール後GHに戻れるな〜と。
即ち、朝スタート地からゴール地へ迎えに行き、ゴール後スタート地に送り届ける・・。しかし、この方法は車での往復を"往復"しなければならず、結局実施はしなかった。
前述の如く、土地家屋調査士会の人達や現地参加の家族の出迎えの車にお世話になった。
現地参加者のご好意に甘えたエピソード。確か都城スタートの区間だった。ゴール後、池尻氏と列車で都城市へ戻る時での車中。ボックス席の向かいにも当日参加のウォーカーが居た。
どうも旅館の主人らしい。我々がGHでの追っかけ参加と知ると 「素泊まりで良ければウチへ・・これも縁だ、宿代はいらないよ」と、近くの温泉街の利用券まで頂いた。
そして「何にも構わないから、明日朝は黙って出て行っていいよ」。 翌早朝、二人で枕元にお礼のメモを置き、旅館をあとにした。

29 ■“百年の孤独”と地酒探究W
 宮崎産の酒といえば、幻の焼酎として「百年の孤独」が有名である・・とは、飲めない私は知らなかった。伊能隊が池尻氏の地元高鍋を歩いた時である。
かねてより池尻氏は地元の「百年の孤独」の酒蔵が見たかったが、個人の見学は出来なかった。当日ゴール後、町の厚意で 伊能隊のみの限定で高鍋湿原と酒蔵の見学があったが、
スタッフにお願いし池尻氏と二人隊員と一緒に見学させてもらった。伊能W後、池尻氏から ようやく手に入ったからと「百年の孤独」を送って貰った事もある。
伊能番外W「下北半島」で池尻氏と再会した際には「百年の孤独」を持参。一緒に参加した横浜の中村義則氏(指宿のくりあ旅館であさひサンご存知の人)がこれを嗅ぎつけ、
部屋で一緒に飲んだ事もある。 伊能Wと酒・・と言えば井上宏本部隊員。伊能Wは井上氏にとっては地酒探求Wでもあったと。
2年間で飲んだ地酒は235銘柄、量は1升瓶換算で470本、休肝日で5合 平均8合/日であったとか。
今でも地元の「倉敷ツーデーマーチ」では井上氏出入りの店で伊能の飲友達との宴がある。私も千葉の伊藤氏と2度招待された事がある。

Re■[トボトボ][幻の焼酎]
 宮崎の麦焼酎「百年の孤独」は40度もあって、720ccで13,000円もします。
隣の薩摩の芋焼酎「海童」はたったの1,100円ですよお。

30 ■張り合った宿敵
 千葉の伊藤義知氏との親交は伊能Wから は前にも記したが、伊能Wも二年目に入った4月、千葉船歩の「成田道中膝栗毛」35Kmを2日歩き 2日後には四国を歩いている伊能隊に合流、
二人でまた歩いた。前記の「伊能・しまなみ海道大会」前日の伊能Wの休養日、伊藤氏をGHの助手席に乗せドライブ。
来島海峡大橋展望公園と、将来四国巡礼をやりたいな〜と二人で話していた最大の難所と言われる60番札所横峰寺へ車で登った。
以下後日談だが、「空海の道」での横峰寺は生水で当たり最悪の体調で登り、伊能Wでの伊藤氏との横峰寺とは全く違った印象だった。
ウォーク歴では先輩の伊藤氏は伊能Wスーパーウォーカー100。200の私はその後「空海の道」も歩き、IVVで伊藤氏にヤット追いついた。
以降二人はIVVで競い合う仲になり、オランダ・ナイメヘンでも一緒に50K×4日を歩いた。しかし、私は最近息切れ・・。
先日「汽笛一声」で一緒に歩いた彼から IVV4万Kを達成したと聞いた。その記念に4月には「空海の道」を歩くと。やっぱり彼には敵いません。

31 ■テントを担いで追っかける
 GHとはテント泊も含まれる。テント泊では神奈川の加藤英一郎氏(以前当欄で紹介)が有名だが、伊能Wをテント泊で追いかけた人がいる。鹿児島の郷之原充郎氏である。
テントは担いで歩く必要はなく、搬送車でゴール迄運んで貰えばいい。しかしテントならではの悩みもある。何処にテントを張るか、知らぬ地へゴールし適当な場所を探すのも大変である。
テント村ならいざ知らず、たった一張りポツン、中に寝ているのは一目瞭然だ・・。近くの公園が主だったらしいが、私も公園でのGHの経験があるが夜暴走族で怖い目にあった事もあり、
テントなら尚更だと思う。しかし郷之原氏は平気だったらしい。また市役所の目立たない隅に了解を貰い張った事もあった。雨の日も大変だと思うが山男なら慣れているのだろう。
市街地では何処だったか本当にホームレスの人達と一緒に寝たらしい。やはり縄張りがあり、ボスに挨拶が必要だったと。
ゴール後の夜の買出しでは、スーパーの時間切れの半額コーナーでよく彼と顔を合わせた。「九州一周浪漫W」では久し振りに彼に会った。
毎年テントで一周しているらしいが、「二周目からはテントを張る場所も決まっているし楽です」

32 ■魁皇とWalkingの効能
 北九州を歩いた。子供の頃育った地、直方 飯塚 遠賀川・・地形は記憶にないが懐かしい名である。遠賀川沿いを歩く・・川沿いの直方市役所から花火が上がった。
地元参加者「今日も魁皇が勝ったらしいネ」 直方出身の当時小結魁皇の快進撃で初優勝した5月場所だった。
腰のゼッケンを揺らしながら歩いている地元の若者?がいた。そのゼッケン「ウォーキングの効能」とある。会うたびにその「効能」が変わる。
「体重の減量」「ストレス解消」は判るが・・「ゴルフのスコアが伸びる」という日もあった。ホントかいな?名前も私と同じだったのでよく覚えている。
この人、あとで知った・・CWのメンバーだった!誰あろう としおじちゃん だったのである。先日の「汽笛一声」のアフターW「王将」での席、この話が出た。
としおじちゃん「ゴルフのスコア、確実に5アンダーにはなるね」 ホンマかいな?
ウォーキングの効能といえば・・「減量」の威力を目の当たりに見た。本部隊員の少し太めのボインちゃん。
第二ステージで久し振りに会って驚いた! スマートになっていたのである!

33 ■快速の隊長 隊員
 14名の応募本隊員を率いて2年間日本列島を歩かれた大内惣之丞隊長。伊能W以来、最近でもお会いすると帽子を脱いで挨拶される。こっちも慌てて帽子を脱ぐ。
この温和な隊長・・200日以上一緒に歩き、毎日違う地での首長さんを前にした出発式と到着式 時には通過地での歓迎式の挨拶を見て来た。
全国47都道府県の自治体 約800の市町村、574日・・。毎回首長さんの名を挙げ歓迎の謝意を表し、その地の歴史 文化 特産物を盛り込みながらの挨拶・・
考えただけでも大変である。難しい氏名や地名を間違う失礼もあったと。選ばれた個性の違う隊員を同じ屋根の下で2年間束ねる長としての悩みもあったらしい。
何処だったか忘れたが、到着までアト7kmという処で 到着式の首長さんの都合で1時間後に到着して欲しい、という情報が入った。急遽、隊長以下 足の速い隊員のみで、
我々参加者を置いて 飛ばして行った事があった。隊長の特徴ある歩き・・肩を左右に揺らす幅が大きくなると凄い速さになる。
他に本隊員で飛ばす事で有名なのが野依六郎氏、校長先生だったとか。明日30日「新ちゃんW」でまた一緒に山手線を一周する。

34 ■新ちゃんウォーク
 新ちゃん(新沢義博君)はCWの画像掲示板で紹介したが、当欄で改めて・・。伊能隊のサポート隊員、4t.トラックで会場設営の小道具や隊員の荷物の搬送を担当。
2年間全国を走破(沖縄はレンタカー)し、その距離3万Km。 未だ30代の若者で大学は地理学科卒の学芸員の資格を持つ。
その為各地での伊能図展の説明役や小学生相手の「伊能教室」も担当した。
歩けない彼は、朝出発式が終了 本隊がスタートした後、設営小道具と荷物を積み込み昼食会場へ先回り。そしてコースを逆に地図を見ながら独歩、隊列と合流後は皆と楽しく歩く。
最長は25Kmとか。午後からは会場設営がある為距離は短くなるが、皆 新ちゃんに出会うと「もうじきゴールだぞ!」 この毎日の「出迎えW」を新ちゃんは大切にしていた。
伊能同窓会Wも「新ちゃんW」となった。
昨日の「山手線一周W 40Km」は雨が雪に、ゴールは電車になってしまった。そして今日また山手線一周・・伊能同窓会W「新ちゃんW」にこれから出かけます。

35 ■アフター伊能W
 昨日の「山手線一周W」は一昨日のTWA主催の「山手線一周W」と違い、全くのプライベートWである。勿論IVVの認定もない。
コース案内の野依六郎氏の予想では参加者は10名程度と考えていたが、実際は27名もの参加となった。オッパーさん かめさんが 二日連続の参加で皆を驚かせたが、
もっと驚いた事は、このプライベートのWに、何と鹿児島から 仙台から 愛知から参加した人がいた事だ。顔ぶれを見ると、伊能W 中山道W を歩いた人達ばかりである。
中山道Wも伊能Wで歩いた人達が中心だったがその後更に仲間が増えた。昨日の通称「新ちゃんW」の伊能同窓会W。
しかし、伊能Wの仲間という限定の「仲良しクラブ」ではない。中山道Wに広がり、これが歩け新聞新年号で紹介された「韓国一周友情W」に繋がっていく・・。
この「韓国一周友情W」に参加のメンバーはTWAの小林昌仁氏を含め、昨日全員参加していた(韓国の金哲秀氏を除く)。歩く仲間とは、そういう限定の仲間ではない。
一つの出会いがその数を増やしていく・・。伊能Wを全然歩かなかったオッパーさんがそれを証明している。

36 ■チョンマゲの伴走車
 隊員の送迎を担当したのが大庭功隊員。車は自前のエスティマ。屋根にはC時計提供のソーラー時計 歩行距離 残日数 緯度 経度を示す4面のパネル。
伴走車として1・2キロ先行し、路肩に車を停めては隊列に手を振り激励する。「最初の頃は、体調を崩した人 マメを潰した人 疲労や筋肉痛で歩けなくなった人を結構乗せた。
マメで靴が履けない足にサンダルを縛りつけ無理に歩く人、後部座席で横になり話も出来ず泣く人、降りて少し歩いてはまた乗る人・・
そういう辛い時期を乗り越え、元気に歩いている姿を見るのは嬉しかった」
彼は釣りが好きで車に一式積み込み、休養日には日本各地で釣りを楽しんだ。また草花や植木に興味を持ち、各地の野山で採取したり、民家の庭先で貰ったり・・。
彼の運転席には紙コップの苗を良く見掛けたし、隊員の荷物と一緒に植木鉢があった。珍しいものは買って宅急便で自宅に送ったという。採取した種は100種を越えると。
今頃大庭宅の庭には全国の草花で一杯だろう。サポート隊員中はズ〜ッと忠敬さんよろしくチョンマゲだった。
伊能終了1年後、大庭氏に会ったが車の伊能ロゴは未だ健在だった。チョンマゲは無かったが・・

37 ■帽子の色
 伊能隊の編成は前にも記したが、帽子の色で区別していた。本隊が黒(白でツバが黒の時も) ステージ隊が赤 エリア隊が青である。
2年間歩く本隊や長期のステージ隊の帽子は日焼けし色が薄れ汗で汚れる。それに対しエリア隊は期間も短かく色も鮮やか。当日参加者は当然各々の帽子だが中に紫の帽子があった。
"追っかけ隊"は参加回数も多く、参加費優遇の「伊能後援会」に入会し、その帽子を冠った。私も沖縄の青帽以外は紫帽だった。隊列は出発時は 黒 赤 青 紫を含む一般 の順だが、
歩くうちに 先頭の隊長 コース案内の地元役員 旗手 以外は 徐々にバラけ、各色入り混じっての談話しながらの歩行となる。
この隊列 通過する地元住民にとってはヤハリ目立つ集団である。しかも旗手が掲げている旗は、わらじ足のロゴに"御用"。地元民「何の集団ですか?」「何処から?」「何処まで歩くの?」
この質問に歩きながら説明するのは大変である。この対策として中盤からは、主旨 日本のコース地図 日程 を印刷した見開きの名刺サイズのカードを隊員が地元民に配る事になった。

38 ■二年続いた幕ノ内弁当
 朝夕の隊員の食事は当然宿だが、昼は地元参加者と一緒に屋外の昼食場所で食べる。我々追っかけ隊や地元参加者は当然自前の食事であるが、
隊員は近ツリが手配した弁当の配給。この弁当を2年続けたら・・隊員達は当然うんざり、となる。近ツリの添乗員的な役目の荻野氏も いろいろ品を変えての苦労の跡は見えるが・・。
寿司弁 牛丼 麺類の組合せ等・・だが主は幕の内弁当である。その為隊員達は野菜サラダやデザート等をコンビニで買っていた。
私と同じ小平市在住の最長老(当時77歳)の八木元市隊員は幕の内弁当が全然ダメで、私が車に積み込んでいるカップ麺とよく交換した。
「伊能」ではなく「空海の道の思い出」になるが、「空海・・」は隊員20数名のみで地元参加者はいない為、事前申込みのそば屋に入ったり レストランが利用出来た。
また「スーパーバイキング」と称し、一人当たりの予算を指定され、スーパーやコンビニで自由に好きなものを購入した事もあった。
白衣 菅笠 姿でレジに篭を持って並ぶ光景は 四国ならではであった。

39 ■近ツリ派遣の添乗員
 2年間 伊能隊の添乗員的な役割を果たした近畿ツーリストの荻野邦彦隊長補佐の存在は大きい。前にも記したが本隊の宿の風呂では度々お世話になった。
私が風呂から上がりロビーで寛いでいると、片隅のテーブルで 隊長 副隊長 地元役員と共に明日のスケジュールの打ち合わせ。「縁の下」の役割、風呂は未だである。
以下 荻野氏の同行記の抜粋を紹介する。
『隊員全般の衣食住や輸送の世話をする責任者という位置づけ。一人では無理で補佐をしてくれる添乗員が必要だったが(注:本隊とステージ隊は別宿舎が多かった)、
簡単には見付からない。長期に家を空けなければならない。通常の添乗員業務の他に 荷物の運搬と積み下ろし 人の輸送等までしなければならないと知り、皆尻込みをされた。
結局、私と同じ九州の元社員が引き受けてくれてやっと出発に間に合った。しかし荷物の多さに苦慮したり、出発直後の1月下旬の寒さと緊張と疲労で
風邪 気管支炎 腹痛 等で隊員達が代わる代わる病院通いをする等、てんやわんやだった。この過酷な仕事にやっと引き受けてくれた添乗員が1ヶ月で辞めると言い出した。』(続く)

40 ■美人の添乗員
 荻野氏同行記の続き・・『やっぱりか とガックリしたが、やむを得ず1〜2ヶ月ごとに添乗員を替える事とし、仙台から女性の添乗員 菅原久美子をつけた。
結局彼女がゴール迄辞めずに仕事をしてくれたのは大助かりだった』・・
この菅原久美子さん、若く明るく中々の美人で 隊員や追っかけ隊の癒し的存在で人気があった。隊員達の会場〜宿の送迎は殆ど彼女の担当だった。
『私に課せられた使命は、無事故 無事件 荷物の無紛失の「3無」だった。特に気を使ったのは食中毒を起こさない事である。とりわけ梅雨時や夏の昼の弁当には細心の注意を払った。
可能な限り昼に近い時間に作って貰い、それを昼食の場所迄届けるのだが、毎日の事だから、弁当屋との交渉 運搬等大変だった。道路が工事中だったり渋滞だったり道を間違えたりで、
昼食時間ぎりぎりになり冷や汗をかいた事は何度もあった。しかし遅れた事は一度も無かったし、食中毒も無かったのは幸いだった。』(続く)

41 ■お世話になりました
 『地方によっては ちゃんとした宿泊施設が無くて、ボロボロの民宿 役場の研修室 キャンプ場等に泊まらざるを得ない事もあった。蚊取り線香を買って来て配ったり、
夕食がない時は釣った魚を料理して食べた事もある。毎日汗だくになる隊員達の洗濯機の手配や部屋割り等といった苦労もあったが、何はともあれ 無事故 無事件 無紛失
でゴール出来た事に、心から感謝しています。ありがとうございました』
・・以上が、近ツリの荻野氏の同行記の抜粋である。この「縁の下」の苦労話も初めて知った事も多く、当時はそれも知らず随分お世話になった。
一昨年11月 「九州スリーデーマーチ」の前後に「九州一周浪漫W」に参加したが、久し振りに荻野氏のお世話振りを見る事が出来た。
私も久し振りにGHでの「伊能W」の再現を楽しんだ。今、荻野氏は近ツリを定年退職されているが、毎年の「九州一周浪漫W」では地元でもあり、依然として添乗業務を担当されている様だ。
【後記:現在荻野氏は福岡W協会の会長である】
42 ■参加費と生活費
 伊能隊の本隊とステージ隊/エリア隊とは宿は別の事が多かった。これは人数が多くて分宿という事もあろうが、参加費の違いで宿のランクが違ったのである。
伊能本隊の参加費は冒頭にも記したが、2年間(574日)で確か400万円だったと思う。これに対しステージ隊/エリア隊は日割り計算で1万円を越えていた。
その為後者の宿の方がランクは上であった。
2年間(5ステージ)を本隊と同じ通しで歩いたステージ隊員が2名いる。あさひさんご存知の関谷宏氏(千葉)と私に生ゴム底のECCOの靴を推奨してくれた小川登生氏(東京)である。
参加費を計算するとすご〜い額になる。更に4ステージを夫婦で歩かれた小野寺夫妻(岩手)、これも凄い額である。しかし考えてみれば、二人だけで 留守宅を
空きに出来るのであれば生活費を参加費に置き換えただけであり、そんなに負担にはならない・・とは途中から夫婦で歩かれた西川本隊員夫人から聞かされた。
なるほどな〜と思ったものである。他にも途中からご夫婦で歩かれた畑中一一本隊員(大阪)。二年間GHで追っかけ家を空けていたかめさん、生活費の一部寄与したかも??

43 ■二年間の経費?
 伊能本隊員はやはり伊能Wの主役。前記の様に参加費はステージ隊/エリア隊よりも安かったし、いろいろな優遇があった。当然後援者の援助もあったろうし、
シューズ ウエア ザック 時計等は無償供与、帽子から靴まで本隊員は全て同じ装束だった。通過地での自治体からの差し入れも「本隊へ」というのが多かったらしく、
別宿の時に振舞われたとか。勿論、ステージ隊/エリア隊のみならず、我々一般参加者にもご相伴に預かった品もあった。
一般参加者は参加費500円/日、土日の各県の大会(移動なしの10km 20km)は1,000円。大会のみ伊能後援会員は無料(入会費1万円)だった。私も会員だった。
GHで追っかけた私は2年間で幾ら掛かった? 出先で2デーマーチとの掛け持ちが多かったし伊能Wとしての計算は困難だ。GHの準備費(カップ麺 ガスボンベ 洗剤等)
を除き、往復のガソリン代 高速代(最近は高速は利用しない)の他は、1日参加費500円 飲食と時々の入浴 で平均1,200円程度だった。GHでの追っかけは、
ガソリン代 高速代を考えると長期滞在しないとペイしない。2年間で直接費5〜60万円? 追記:沖縄は別でした!

44 ■出発前の会場で・・
 私はGHから毎朝 会場作りの一部始終を見て来た。時には手伝った事もある。出発1時間前には先ず新ちゃんのトラックが到着。そして久美ちゃんと大庭氏の車で本隊員が到着。
役場の二階から 「平成の伊能忠敬 ニッポンを歩こう 21世紀への100万人ウォーク」の横断幕を取り付ける。拡声器 マイクの調整、受付のテーブル上で本隊員がリレー式に
ゼッケン バッジ 参加票等の袋詰め。コース地図の準備。地元の朝日新聞が前日の伊能Wの記事が載っている無料配布の朝刊をドサッとテーブルに置く。
会場作りが終わった頃 歌手AKIRAが歌う伊能のテーマソング 「I know map」が流れ雰囲気を盛り上げる。やがてステージ隊/エリア隊が車で到着。
隊員達が朝日新聞を広げ、先ず自分達の伊能記事を探す。追っかけ隊 地元参加者も三々五々。地元の土地家屋調査士会の人達も車で。
スポンサーの私が勤めていたシチズン時計は東京出発時から車で時計を積んで追っかけていた。会場での時計販売である。伊能ロゴの文字盤の時計。
私も参加者に宣伝コレ努めたが・・大会では結構数が売れたが平日は・・。伊藤義知氏は早々と買ってくれた。

45 ■炎天下の沖縄を・・
 伊能忠敬は沖縄の地は踏まなかったが、伊能Wは沖縄も歩いた。当初、沖縄は酷暑を避け第4ステージの最後(〜7/9)に計画されていた。
ところが沖縄サミットの直前という事で“指導”が入ったのか急遽サミット後の第5ステージの冒頭(8/24〜)に変更になった。
北海道を歩かなかった私は沖縄は是非歩きたかった。3年前の暮れには「名護やんばる・・」で沖縄を既に歩いており、何も暑い沖縄を歩かなくとも・・と思ったが「伊能W」は別であった。
まさか沖縄にGHで・・結局「エリア隊」に飛んで参加した。伊能隊の車も、フェリーでの搬送は高かったらしく、伊能歩行記録のパネル装置を屋根に載せた大庭氏の車以外は
現地のレンタカーを使っていた。暑い沖縄、隊員全員に帽子に付ける首筋の日除けカバーの支給。早朝スタート 午前中にゴールする毎日10数kmの行程だった。
炎天下、ハイビスカスを前に 日除けカバーを付けた隊列の写真が朝日新聞の全国版に出た(金井カメラマン写)。
隊列の中央に私が・・。これを見た弟(トボトボ)「まるで南方の敗残兵の行進だ〜!」 【巻末の写真参照】

46 ■上げ膳据え膳
 沖縄での一週間、GHでは体験出来ない寝食を共にした友との時間を楽しんだ。ゴール後車に戻る心配もないし、歩くだけの上げ膳据え膳の毎日だった。
皆に「楽でしょう」と散々言われた。しかし、これを2年間続けたらどうなるだろう? 特に女性は? アフター伊能が大変だったに違いない。
午前中のウォークでは、いたるところ金網で「基地の町」を痛感したが、午後は観光。隊員としての見学行・・首里城他の見所は殆ど巡ったが、
沖縄サミット直後の会場「万国津梁館」も見学出来た。G8の各国首脳が一同に会したコンベンションホール。コバルト色の海に面した総ガラス張りの高台からの眺め・・。
各国記者からも金の使い過ぎと批判された程の素晴らしい施設である。森首相 クリントン大統領 等各国元首のサイン入りの銘板・・。
沖縄を歩き終え飛行機で帰宅したが、翌日には車で高速を走り、2日後には鹿児島から伊能隊に合流。18日間日南海岸を北上、大分・佐伯市迄歩き、
2日後には「川口・見沼ツーデー」に参加した。

47 ■朝日新聞の全国版に・・
 朝日新聞の全国版の写真に私が載ったのは前記の沖縄と、富山県の黒部を歩いている時だった。この時も私が写真の中央に・・。
実はこの日の前日、台風の真っ只中「親不知海岸」を歩いた(後述)。その翌日の台風一過の晴天、なぎ倒された実りの田んぼの中を歓迎の地元(黒部)の園児達と少しの間
手を繋いで歩いた。その時の写真が全国版に載ったのである。【巻末の写真参照】 その後自宅へ戻り、所属の「多摩ハイキング同好会」の例会に出席した際、
皆の話題になり「伊能ウォーク」を知って貰うキッカケとなった。伊能Wは通過の各地で沿道の園児達や休憩した小学校の学童達の歓迎をアチコチで受けた。
特に印象に残っているのが日南海岸を歩いていた時のゴール地での須美江小の学童の歓迎だった。全校生5名・・夕日の海岸をバックにしたウクレレの演奏。
保健の先生指導のウクレレ。我々と一緒に歌った「ふるさと」の伴奏には思わず目が潤んだ。過疎地では全校生が10名にも満たないという小学校によく出会った。

48 ■台風と蜂との遭遇
 雨もまた自然、台風以外は歩きます・・がウォーキングの鉄則。しかし、伊能Wは台風でも歩いた。歩かなければ公式に決めた日程が狂ってしまう。
「鳥海・・」「伊能W」「吾妻山麓ツーデー」と歩きまた「伊能W」に戻った時である。糸魚川の近く、景勝地「親不知子不知」で台風に遭遇。朝から風雨で、
スタートでは大内隊長「傘は使わずカッパを・・」。断崖絶壁の車道・・下から吹き上げる風雨・・景勝を眺める余裕は無かった。通過直後国道は車通行止めになった。
台風接近の情報に前日ゴール地へ車を移動させたのは正解だった。全員ズブ濡れの富山県入りだった。
「日本スリーデー」「伊能(鳥取)」「加古川・・」を歩き また「伊能(京都)」に戻った日だった。宮津〜福知山35Km、赤鬼青鬼の像が立っている大江山の峠越えで
思わぬハプニングに遭遇。隊列が赤鬼ならぬ赤蜂に襲われたのだ!前の集団が騒ぎ出した。思わず立ち止まる。私は蜂は見なかったが、アトで聞いた話・・。
先頭集団で蜂が騒ぎ出し、第二集団が襲われたのだ。10数人が刺され、追っかけ隊の女性1名が入院する騒ぎだった。

49 ■ハブとマングース
 綴っている「思い出」は、予め纏めたものを小出しにしている訳ではない。思い出したものから・・芋づる式に・・。その為、時系列的には前後し、また遡ったりする。
沖縄にまた戻る。一般観光では見る事の出来ない 海洋深層水の技術研究所も見学出来たが、観光では絶対に見られないと思う “闘犬”を見た。(後述)
沖縄といえばハブと泡盛。泡盛の酒蔵を見学した時、ハブ酒の見本の酒瓶の中、とぐろを巻き 鎌首をもたげ 目を見開き 裂けた口から舌を出すハブには、
どうやって形作ったのか不思議に思ったものである。ハブと天敵のマングースの“決闘” も観光の目玉らしいが、現在では実演は禁止され、映像だけらしい。
地元の人の話では、自然界ではマングースはハブに出会っても相手にしないそうである。人間の都合で無理に金網の中で戦わされているだけだとか。
過去、ハブ駆除の為に放ったマングースが現在では繁殖し、農作物を荒らしているとか。人間の愚かな知恵がもたらした自然の秩序への冒涜である。
12日夕のNHK-TV、やんばるくいな や いりおもて山猫 が最近生息地を通る車道で轢かれるケースが目立ち、絶滅の心配があると報じていた。

50 ■沖縄の闘犬
 沖縄で“闘犬”の貼り紙を見た。近くでやるらしい。 エリア隊のT氏と見に行った。小さな公園で2・30人の見物。主催者らしい人が我々を“よそ者”と見て近づき、
撮影禁止と注意される。どうも“内輪”だけの愛好家の催しらしい。2m以上もある高さの金網で10畳ぐらいの広さを囲っている。テニスの審判席の様なやぐらが金網の外に。
やがて、車から いきり立つ ドーベルマン?を引いた二人の飼い主が登場。やぐらの上の“審判”の合図と同時に双方の入口から飼い主が2頭を金網の中に放つ。
アトは壮絶を極める戦い・・、お互い相手のノド元に噛み付こうとする・・その攻防・・耳が噛み切られる・・唸りながら全身血みどろの戦い。主が外から大声でけしかける。
5・6分だと思うが長く感じた・・。片方が戦意を失い逃げ始める。合図と共に飼い主が割って入る。残酷極まりないショーだった。次の出番を前に、T氏は 「もう、いい」 と
帰り始めた。私も未練があったがその場を離れた。後味は良くなかった。
メキシコ赴任中によく“闘牛”を見に行ったが、華麗なショーだった。観衆の「オーレ!」に牛と闘牛士が舞う。一突きで刺された牛は、その後 食される。

51 ■関門トンネル
 九州から本州へ、関門海峡を歩いて渡ったのは初めてである。 全長3,461mの車道トンネルに対し、海辺ぎりぎりでエレベーターで降りる地下55m、全長780mの人道トンネル。
幅も4mと狭いが、明るくエアコンも効いているとか。無料で、当日雨だった為かジョギングする人もいた。当日は北九州市・小倉城から下関市・運動公園迄。
GHは門司港に面したメカリ公園。ゴール後、運動公園から下関側のエレベーター迄6km歩き、結局トンネルを往復した。メカリ公園はその後、
「九州一周浪漫W」「九州スリーデーM」の際にも利用した。
関門トンネル・・には思い出がある。小学3年の頃、親父が 九州の炭鉱から北海道の炭鉱へ転勤。その際関門トンネルを通過した。
海の中のトンネル・・汽車の窓から魚が泳ぐのが見える!・・と思ったものである。松本零士の「銀河鉄道999」を見る度びに思い出す。
大学を卒業し、就職が決まった夏休み。オートバイ(Honda ドリーム250cc アップマフラー)で長崎迄走った。当時 東海道は岡崎辺りは未だ未舗装だった。
関門トンネル内の県境で単車を停め写真が撮れる程当時は交通量も少なかった。

52 ■震災の跡を・・
 あれから10年・・阪神・淡路大震災。雪に埋もれた新潟中越地震の被災地 スマトラ島沖地震の津波被害の直後だけに、TV各局も連日特集番組を放映、
当時をを改めて思い知らされる。伊能Wも復興5年後の震災地を歩いた。丁度第4ステージの冒頭、新春 大阪からのスタートだった。ステージ最初からの参加は東京出立以来である。
大阪城公園の会場は凄い参加者 1,000名?上空にはヘリコプターまでも・・。初日は大会で大阪城公園スタート・ゴール 造幣局 中ノ島を巡る周回の12Km。
2日目から神戸に向かう35Km。震災の惨状を写真や映像でしか知らない私。復興5年の街道を歩く。西宮・・神戸・・表通りは復旧しているが一歩裏へ回ると未だ傷跡が残っていると・・。
神戸での大会(移動なし)は2日間だったが、2日目は、浪速W協の例会「大阪湾一周 34Km」へ浮気。翌日 伊能隊と一緒に車で淡路島へ渡った。延べ3日間 被災地淡路島を歩いた。
広い畑の中央を走る断層・・野島断層。その断層が民家の庭を貫通していた。その民家が庭ごと北淡町震災記念公園として保存されている。散乱している食器類 傾いている柱・・。
当時の惨状がそのまま保存されていた。

53 ■熊野古道
 世界遺産に登録される前の「熊野古道」を伊能Wで歩いた。実は伊能Wの前に「熊野三山ビッグハイク」で既に歩いていたが。その時は5日間 宿無し、
山の小学校の体育館等で寝袋だけの“山”の「熊野古道」だった。これに対し、伊能Wの「熊野古道」は海側・・。前記したが、「日本スリーデーマーチ50Km」を歩き終え、
翌日には紀伊半島を、そして「加古川・・」へ抜け出し、また紀伊半島に戻り、尾鷲〜熊野を2日間歩いた。初日は生憎の雨。杉木立の中、濡れた石畳を・・
難所といわれる八鬼山を越えた。
山を降りた三木里では、西川本隊員の実家の大歓迎を受けた。実家といっても立派な寺である。その離れの大広間で近所の人達総出で 鯛めし 寿司 おしるこ・・、
我々一般参加者にも。とにかく大きなお寺、阿羅漢(アラオ)さんの名も、さもありなん・・と思った。
翌日は更に曽根次郎・太郎坂等 幾つかの峠を越え、逢神坂の峠を越えた処では、先頭集団から 蜂に遭遇 迂回するとの情報。道なき道の藪をかき分け迂回した事もあった。
前記の蜂騒ぎは二度目の話である。その後、「小田原ツーデー」に一旦戻り、改めて出直し、紀伊半島を大阪まで歩いた。

54 ■余部鉄橋の下を・・
 伊能W1年目の終盤・・「日本スリーデー」 伊能(紀伊半島) 「加古川」 伊能(熊野古道) 「小田原ツーデー」 伊能(紀伊半島)・・のハシゴは前記したが、
その後 「平成の東海道53次 京上り」 伊能(紀伊半島)・・と第3ステージ最後の大阪迄歩いた。2年目の終盤も全く同じパターンだった。
日本スリーデー〜伊能(山陰)〜加古川〜伊能(宮津/京都)〜小田原〜平成の東海道〜伊能(東海道)〜東京(ラストW)へ・・
先日歩いた「おろちW」の帰途、山陰線の餘部鉄橋から見下ろし・・東松山から寝ずに鳥取まで走り、翌日伊能隊と合流、餘部鉄橋の下を潜ったのを思い出した。
餘部鉄橋・・山間に架かる長さ310m 高さ40m の美しい鉄橋である。昭和61年、トンネルから出た際 日本海からの強風に煽られ鉄橋から脱線落下した事故は、
国鉄最後の大事故として有名である。鉄橋の下に慰霊碑がある。鉄橋の下の駐車場でトイレ休憩。そこで全員の集合写真・・金井カメラマン時刻表を見ながら、
注文で鉄橋を背景にひな壇になり 列車の通過待ち・・後ろを見上げながら通過をジット我慢・・懐かしい一コマであった。

55 ■サトウ・サンペイと・・
 芝居と映画で伊能忠敬に扮した加藤剛に会った時はヤハリいい男だ・・と思った。しかし、伊能Wといえば漫画家サトウ・サンペイを思い出す。
九州の大宰府と静岡・清水市で一緒に歩いた。フジ三太郎の顔付のサインも貰った。歩いた・・と言っても通しではなく部分的。普段は歩かない作家・・、
朝日新聞に連載していた関係からか要請があり参加したらしい。朝日新聞のヒゲの遠藤氏に、スタート時とゴール時だけ歩けば・・キセルでいいから是非・・と言われて参加したと。
ゴールしてからの市長を前にしての挨拶 「キセルの私が言うのもなんですが、やはり歩くのは健康にいいです。ですから、市長さんも公用車はやめて歩いて下さい」
・・笑いと拍手、市長苦笑。
朝日新聞の日曜版に、サトウ・サンペイの伊能隊員の一コマが掲載された。隊員一人一人の顔が実にソックリ・・誰かがスグ判る。特に大内隊長の足を前後に伸ばし
腰を落としたストレッチ姿のスケッチは傑作だった。キセルの絵の中央・・チョンマゲ大庭氏運転の車には三太郎が鼻提灯・・。隊員達は新聞を広げ、笑いの止まらぬひと時であった。

56 ■赤信号が好き
 「伊能ウォーク最終報告会」 2000年12月30日 サトウ・サンペイ パシフィコ横浜での講演より・・(抜粋)
『・・僕は坂道はダメなんですよ。5度勾配があったらイヤなんです。横浜は坂道がありますね。横浜っていうのはハマだろう、どうしてヤマなんだ・・』
『朝日新聞の静岡版に歩くコラムを掲載する事になり、原稿を書きながら歩いたんです。実際歩いている途中に書く訳にはいかないから、途中の喫茶店とか、そば屋とか、
最終的には支局で書いたんですけどね。その点、芭蕉はいいですね。歩きながら 「五・七・五 」ってやればいいんだから』
『歩いていると交差点で信号機がありますよね。隊員は歩調を乱したくないから青がいいらしいんですが、私は赤が好きだ。福岡では田舎は勿論信号機はあまり無いけど、
市街地に入ったら信号機が沢山あるにも拘らず、6キロも歩いて赤が無かった。青ばっかりじゃ休めない。福岡市は悪い市だ、なんて思ったりしてね。
赤信号くらい作ってくれ(笑)。静岡では赤信号が多かったので、静岡はいい市だなあって思いました・・』

57 ■越すに越されぬ天竜川
 静岡・清水市ではサトウ・サンペイ氏と共に柔道の山下泰裕元選手とも歩いた。掛川市では「ねむの木学園」の園児達の出迎えを受け、宮城まり子園長にも会った。
伊能Wもいよいよ終盤・・静岡県から東海道を江戸に向けて・・。東海道を歩いたのは3度。先ず「平成の東海道53次」。’96年11月・・足掛け5年計画で東海道を歩こうと
江戸と京の双方から同時スタート。私は「京上り」に参加、完歩したのは伊能Wゴールの翌年3月だった。そして15日間で一気に歩こうという「平成の東海道膝栗毛 東下り」。
ゴールは「東海道53次京上り」のゴール1週間前だった。そして21世紀冒頭にゴールの「伊能W」。
東海道・・箱根八里は馬でも越すが 越すに越されぬ大井川・・。しかし、越されなかったのは大井川ではなく 天竜川だった。大井川橋には歩道があるが、
天竜川橋には歩道が無いのである。交通量が激しい1号線・・一人では危険覚悟で渡れるが、隊列歩行は禁止である。止むを得ず隊員は伴走車で、我々一般参加者は
JR天竜駅〜豊田駅 1駅東海道線で渡った。「・・東海道53次」の時には8km上流に迂回し橋を渡り、「・・膝栗毛」ではバスで渡った。

58 ■好天に恵まれた薩た峠
 静岡市での静岡県大会(移動なし)では、府中 安倍川 草薙 登呂の各コース。同姓のよしみのコースを選び、安倍川餅を賞味した。
翌日は休養日、清水市の 清水次郎長 大政 小政 の墓や 日本平 三保の 松原を隊員達と観光。この時、確か大内隊長の奥様も千葉から駆けつけ一緒だった。
気さくで明るい奥様である。ところが、翌日のウォーク・・姿が見えない。どうも、隊長の手前もあり 一緒に歩くのは・・と千葉へ帰したらしい。皆 「隊長、テレ屋だからな〜」
薩た峠、東海道屈指のビューポイントである。好天に恵まれ、東海道と富士と駿河湾・・広重の絵で有名な風景が正面と眼下に広がる。
現代の“広重”には国道1号線とJR東海道線 そして曲線を描いて交差する東名高速道路・・。これをバックに畑中隊員夫妻のツーショットを撮ってあげたのを思い出す。
峠で昼食。午後は黄色いみかんが鈴なりの畑を下り、由比宿本陣へ・・広重美術館へ立ち寄る。いよいよ・・箱根越え・・そしてラストWへと・・。

59 ■鎌倉でのハプニング
 暮れには毎年恒例の「鎌倉歴史探訪ウォーク」に参加している。その日の12月23日「伊能W」はうまい具合に休養日。22日(富士〜三島) 23日「鎌倉・・」 24日(三島〜元箱根)
25日(元箱根〜小田原) ・・ と歩ける。 しかし、元箱根を挟んだコース・・GH地は? ゴール後のGHに戻る手段は? 特に三島〜箱根間は情報不足だし、
名古屋から東海道を連日歩いているし、我が家も近くなった事だし、箱根越えは「東海道膝栗毛」で3月に歩けるし・・という事で、2年続けた伊能WのGHでの追っかけは
21日(蒲原〜富士)で終了させ、17日振りに帰宅した。
帰宅した後は、23日の「鎌倉・・」 そして25日から 元箱根〜伊能のラストW迄を自宅からの通いで歩く予定であった・・。まさか・・「鎌倉歴史探訪ウォーク」で思わぬハプニングに遭遇し、
その後の伊能W・・特に 肝心のラストWに参加出来なかった・・とはその時 夢にも思わなかった!

60 ■伊能Wのラストウォーク
 思わぬハプニング(後述)で、結局 私の「伊能」は東海道の富士市迄・・私の「伊能Wの思い出」 はココ迄である。これまで、思いつくまま断片的に「思い出」を綴って来たが、
5年前の2年という長丁場だっただけに忘れてしまった事も多く、今後も思い出す事もあろうが・・。現時点での断片的な追加としては・・
久し振りに自宅から通った浦和での大会では、会社の同僚や後輩に会い 懐かしいひと時だったし、八王子から小仏峠越えをした後上野原へゴールの直前
バケツをひっくり返した様な豪雨に遭い、市役所内での隊員だけの到着式・・我々は長時間の雨宿り。大阪ではゴール直前の雨上がりでの素晴らしい虹のアーチの下を・・等々。
伊能Wの2年間、第1Sの中・後半から第2Sの前半迄の3〜6月は「伊能」は歩かなかったが、翌年のオランダ・ナイメヘン参加の7月を除き、毎月「伊能」を歩いた。
GH外は、東京出立の3日間(〜市原市)と 第3S東京近辺通過の 浦和〜上野原の3日間、8月 沖縄のエリア隊の1週間で、207日(伊能Wのみ) GH生活だった。
歩いた距離は 4,799km だった。 冒頭の「伊能ウォークの足跡マップ」参照。

61 ■伊能Wで記録を伸ばす
 冒頭の「伊能Wの足跡マップ」の緑の太線が 実際に私が歩いたコース(距離)だが、全体の50%以上は歩いている。しかし 数字上では本隊に比べ、距離で44%
日数で38%である。これは 土日に合わせ、各通過地の都市では移動なしのイベント大会が多く、私は勿論その大会にも参加したが、殆どは他の「ツーデーマーチ」に
抜け出していた為である。また本隊の574日の中には休養日も入っており、私の日数は実際に「伊能」を歩いた日数である。休養日では 隊員達との観光も楽しんだが、
近くにイヤーラウンドがあれば利用した。
私が本格的に歩き始めた(Wダイアリー & IVV 記録開始)のが ’96年11月の「日本スリーデーマーチ 20 30 50Km」であり、続く 「新宿〜青梅かち歩き43Km」
「平成の東海道53次 京上り」が記録のスタートだった。’99年1月の「伊能ウォーク」スタート迄の2年間は、一人で黙々と歩いていた。
「伊能W」の出だしで千葉の伊藤氏と話をする様になり、「伊能W」の追っかけで“仲間”が増え、「伊能W」の2年で IVVも飛躍的に伸びた。福井で IVV 1万km 沖縄で 1.5万km になった。

62 ■番外編(前立腺肥大)
 「伊能」のラストWを断念せざるを得なかった「鎌倉歴史探訪W」での出来事・・。実は途中で体調を崩しリタイア・・その後入院・・という事態になってしまった。
半年前からその兆候はあったのだが、GHでも・・。成人病・・男性 誰しも中高年になると大なり小なり・・なるという。その「小」の出が悪くなる「前立腺肥大」である。
「小」を完全に放出するのに時間が掛かる。「伊能W」でトイレの際、フォーク並びなら良いのだが、1ヶ所しか無い場合・・後ろでお待ち頂いてる方を考えると余計“出”が悪くなる。
夜は特に出が悪く、昼の「チョロチョロ」に対し、夜は「ポタポタ」・・。
その日、「鎌倉歴史・・」 は「化粧坂切り通し」だった。昼休みの源氏山公園、食事後トイレに・・。ところが1滴も出ない! いくら振っても出ない!
諦めるも、歩いているうちに段々張って来る・・。脂汗が出る! 途中のトイレでも・・出ない! 苦しくなり、遂に 由比ヶ浜へのゴールを諦め、鎌倉駅のトイレ内で暫くうずくまる。
やはり、出ない! 苦しみながら何とか自力で1時間半かけて電車で帰宅。もう、診療時間が終わっている近くの公立病院へ女房の肩を借り駆け込む・・

63 ■番外編(手術の顛末)
 結局手術しなければならなくなったが、何しろ暮れも押し迫った時期であり、手術は年明け・・となった。 病院へ駆け込み 手術までの経過 をここで記すのは「伊能Wの思い出」としては・・
と思うが、この顛末は私にとっては「伊能」とは切り離す事が出来ない出来事だった。「思い出」の一部である。
急患扱いでベッドに横になった私を 当直の医者は、麻酔も行わず 直径5mm位のビニールチューブを“先”から突っ込んだ! そして下腹を押し、目盛り付グラスに受ける・・。
何と出た量 750cc! 全身の力が抜け、開放放心状態だった。 そして、ゴルフのティーの様なクサビで栓をしたチューブを差し込まれたまま・・年を越した。
入院 年明け4日、9日に切開摘出手術。 手術後 暫くはチューブからはトマトジュースが・・。やがて、トマト・・が赤ワインに・・。
そして、赤が白ワインになり チューブを抜き、25日に退院出来た。
歩き始めが2月3日、例会参加が10日から、3月には「春一番」 そして15日間連続の「平成の東海道膝栗毛」「武蔵野十里」「平成の東海道53次フィナーレ」と歩き、現在に至っている。
今 “出”はすこぶる良好である。

64 ■最終回(思い出ぼろぼろ)
 私が「伊能」のラストWに参加出来ない旨を伊藤氏に連絡したが、その後伊藤氏から、 肝心のラストWに私の顔が見えないがとうしたのか・・と度々質問を受けたと。
「伊能」のラストW・・その頃、私は自宅でビニールチューブを差し込まれたまま・・「伊能W」の顔々を思い出し、イラストレーター山藤章二のワラジ足の「伊能ロゴ」がドタドタ
歩いているのを思い浮かべ・・歯ギシリしていた。
今にして思えば、“クラブWalking” が このラストWで芽生えようとしていたのだ。還暦オジサンの「思い出ぼろぼろ」 ・・ オジサン と あさひさん YKさん もたさん・・
の出会いのWでもあったのだ。 私にとっては参加出来なかった「伊能」の「ラストW」も、忘れられない「伊能ウォークの思い出」である。 終わり




ハイビスカスの咲く沖縄の炎天下を・・(45)



台風一過の晴天下、なぎ倒された実りの田んぼの中を歓迎の地元(黒部)の園児達と・・(47)

以上写真二枚 朝日新聞社提供(禁 無断転載) 撮影:朝日新聞OB 金井三喜雄カメラマン



朝日新聞千葉版に・・(3)



伊能W実行委員会の報告書より(23)








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